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2007年1月30日 (火)

脱亜論とは…

脱亜論とは…  

 1885年3月16日、福沢諭吉が「時事新報」紙上に掲載した社説を「脱亜論」と呼んでいる。文中で、福沢は「欧米列強に対抗するために、朝鮮・中国の開明を待つことやめ、欧米のように処分(侵略)すべきである」という主張を展開した。原告は教科書執筆に際し、「アジアの中の日本」というテーマの中で、日本人のアジアに対する差別感と「脱亜論」の関係を説こうとし、検定の際に意見をつけられた。

脱亜論の解釈をめぐって… 

 高嶋訴訟の最大争点である福沢諭吉の「脱亜論」について、「脱亜論の扱いが一面的であるので、それが書かれた背景事情をも考慮して記述を再考すべきである」という検定意見は、多様な学説があるという理由で検定を適法とした。
 「脱亜入欧」が「脱亜論」の主張の要約か否かについて、次の3者の見解が例示されている。丸山真男は「脱亜入欧」という熟語は福沢諭吉の主張からある程度遊離して成立し使用されているとし、証人の安川寿之輔氏(名古屋大学)は「脱亜入欧」の成句の意味を「脱亜論」の主張の要約と解釈することは自然であるとの見解であり、池井優(慶應大学)は「脱亜論」は文明論の尺度からのみ成り立っているとの見解である。
 「背景事情をも考慮すべきである」との検定意見の指摘について、丸山真男は、福沢諭吉が関与していた朝鮮の甲申事変の失敗による挫折感と憤激の爆発として読まれるべきだとし、池井優は、現実の日清関係の中で明治政府においては清国を仮想敵国とする軍備拡張政策を取るようになり、民間でも日清関係を日本の国益において対処しようとする動きが出てきて、これらの背景事情の下にアジアの唯一の力である日本が独自の行動を採ることが正統であるとの論拠から出てきたのが「脱亜論」であるとした。坂野潤治は、「脱亜論」の背景は直接的には壬申・甲申の事変だが、さらに福沢自身の対アジア政策論から見れば「アジア改造論」等の東アジア対外政策論の挫折という「状況構造の変化」に関係するとし、安川寿之輔氏は福沢は初期啓蒙期と呼ばれる時期から既に「マイト・イズ・ライト」の国際関係認識を前提とした国権論の立場に立っていたことを指摘している。
 こうした学説対立を根拠にして、裁判所は日本の近代化のシンボルである福沢の主張に異説を唱える判断と意欲を持てなかった。代わりにだされた「勝海舟の『氷川清話』引用が著者の都合のよいところのみを抜き出した」という検定意見は、教科書調査官の勉強不足による裁量権の逸脱である、とする判断は私たちも予測していなかった。この点は松浦玲によれば、勝海舟はもともと蘭学者であったにも関わらず、同時代の日本人と異なりヨーロッパ文明と国家を是認せず、日本がそれに追従することに批判的であって、「脱亜論」との対比でいえば、海舟の考えはアジアに踏みとどまるとしている。この見解に対立する学説は国側も提示できなかった。勝海舟が非戦論と日清戦争の外債反対論と結びつけた主張をしていたことは明らかであり、福沢批判に判決が言及するのは今一歩なのだが。
 「福沢諭吉批判」は彼に高い評価を与えていた、戦後の日本の論壇をリードした丸山真男のアジア観批判にもつながる。晩年の丸山は自己の中国に対する視点が通用しなくなっていることを示唆していたというが、私たち自身が真の意味でアジアの一員になることとともに、アジア観を確立する意味でも議論を続けていきたい。

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